死生観

夕べ、BSフジのプライムニュースに二人のお医者さまが登場していました。癌の5年相対生存率が、女性は60%を超え、男性も60%に迫ろうとしていると言う統計の発表を受けての話でした。
登場なさったのは次のお二人でした。
・石飛幸三氏(特別養護老人ホーム 芦花ホーム常勤医 平穏死の提唱者)
・樋野興夫氏(順天堂大学医学部教授 がん哲学外来理事長)
医学の進歩を得て、まぁ、発症部位にも因るわけですけれど、癌はある意味「慢性病」に近い様相を呈し始めているわけで、罹患した癌患者のある意味で死に直面して、しかも長く続くその心の問題をどう受け止めるか… と言うことから始まったがん哲学の提唱者の樋野氏と、まれにみる高齢社会を迎えているこの日本における高齢者医療の問題と向き合って「平穏死」を提唱する石飛氏のお話は、紛れもなく死生観のお話でした。
私が子供の頃は、かなり「死」やそれに伴う「看取り」は身近にありました。私の父も自宅で死を迎えましたしね。そういうことに身近に接して、人はその「死生観」を自分の中に築くものなのだと思います。
今の時代は、人は大半が病院で死を迎えるわけで、勿論昔のように往診に応じていただけるお医者様もほとんどいないわけで否応なしに病院で死を迎えるしかないのですから、やはり人は「看取り」も何も他人任せで、直視を避けられる状態にいられるので、その「死生観」を築きにくいのではないのかしらね。
医学の進歩は、ある意味で永遠に続く「今の自分」が保障されているような錯覚を生むのかもしれないのだけれど、やはり人は死ぬべきものなのだから、静かにそれを受け止め滅びていけるだけの「死生観」を自分の中に築いておかなければかえって不幸だろうと思ったりしました。
どうにもならないことは静かに受け止め諦める潔さと言うことでしょうか。難しいことではあるのですけれど。