去私

子供のころ、父の書斎に欄間額がかかってました。書かれていた書は「去私奉公」という文字で、勿論古めかしく右から左へという方向で書かれた書でした。
これ、どういう意味? と尋ねた私に「私心を捨てて公に尽くす」ということだと教えてくれたのが父だったのか母だったのかは覚えていませんけど。
まだ子供だった私は「ふーん、そうなんだ~」というくらいの反応だったと思います。少し長じてからは「奉公」という言葉に、「公」という単語を短絡的に「国家」と考えてしまったせいだと思うのですが、何やら軍国主義的な色合いを感じてあまり好きではなかったのですけれど…
年齢を重ねてからは、「公」の意味は「国家」などという狭い枠組みとはかなり違った意味合いのものとして捉えるようにはなってきていますが。

先日、天皇誕生日にあたっての天皇陛下のインタビューを聴いていたら、この「去私奉公」という言葉が思い出されました。ひたすらに他者を気遣い、祈り続けるというお立場はさぞや苦しいものなのでしょう。あのお言葉には、衷心から真にそう思われていらっしゃるからこその計り知れない力を感じ、何だか素直に感動しちゃいましたっけ。空々しい言葉が巷にあふれている昨今、まっすぐに他者に向かう心のこもった言葉の力というものを素直に感じたわけです。

で、話はガラッと変わるのですが、高橋大輔クンが世界選手権の出場を辞退したというニュースを聞きました。「日本のレベルアップのためには、若い選手が経験する必要性の方がその意義は大きい」ということもその理由の一つらしいのです。これもまた、何かしらの清々しさを感じたことでした。

「我欲」を離れもっと高みを見据えることの大切さって、あるような気がしています。それが出来るほどの器であるかというと、はなはだ心もとないことではありますけれど。やはり「自分のこと」より優先する何かがあるべきだという気がしています。