守・破・離

先日出かけた時、昼食に立ち寄ったお蕎麦屋さんで読んだ新聞のコラム欄で「守・破・離」と言う言葉を知りました。
武道の心得としての言葉と説明されていましたが、どうも茶道や芸術の分野でも大切な心得としても扱われているようです。
ウィキペディアによれば以下のように説明されています。

まずは師匠に言われたこと、型を「守る」ところから修行が始まる。その後、その型を自分と照らし合わせて研究することにより、自分に合った、より良いと思われる型をつくることにより既存の型を「破る」。最終的には師匠の型、そして自分自身が造り出した型の上に立脚した個人は、自分自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て自在になることができる。

なるほどなぁ、と深く感動しちゃいました。私がやっている「七宝」と言う分野は工芸で、これは基礎的な技術や知識なしにはとてもマトモなものが作れない。つまり、その基礎を学ぶのが「守」です。しかし、それだけではしょうがない。その中で、自分の表現をどう確立してゆくのか、それが「破」なのだと思います。そして次の段階「離」・・・ さてさてこれが問題なんだわ・・・

30年以上も昔のことなのですけれど、七宝の関係でヨーロッパへ行った事があります。その時バルセロナでふと立ち寄ったピカソ美術館。個人コレクションとバルセロナ市所蔵の作品や、その後画家本人やその家族・友人からの寄贈作品を並べている美術館でした。
膨大な数の、幼少期からのデッサンが並べられていました。見ていると、どう見てもこれはセザンヌじゃないの? とか、つまりありとあらゆる作家たちの影響を受けたデッサンが並んでいました。
こうやってピカソは己の基礎を培ったのだろうと、深く感動したのを思い出します。あらゆる作家たちの感性と技法とにすさまじい影響を受けたのでしょう。そこに彼の根っこがあるんだ・・・

「守・破・離」とは、学ぶものの心得でもあり、教える側の心得でもあり、そして創る側の心得でもある・・・

昨日、今年の作品の図面を引いて、素地の発注をすませました。さて、最近どっぷり浸かっていた「老人気分」を乗り越えて、私ももっと頑張らなくっちゃ。