友がみな…

最近、駅構内で刃物を振り回したり道で見知らぬ人を刺したりなどと言うワケのわからない八つ当たり的な事件が多いような気がする。自分事としては、ぼんやりと歩いていたりしちゃいけないななどとふと思ってしまうのだが、かといってそれほど日々緊張していられるわけもなく、運の善し悪しかしらんなどと。

ま、世の中追いつけないほどの速さでどんどん変わって、格差はどんどん広がって、人としての値打ちが果たしてどこにあるのかが分かりにくくなってしまったこの時代、やはり深く鬱々とした気分が蔓延しているということかもしれない。

友がみなわれよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て妻としたしむ

と、これは石川啄木の歌集「一握の砂」におさめられた一句である。

「他人(ひと)がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と置き換えると、「だれでもよかった」とうっぷんを晴らすために刃物を振り回したりしてしまうのだろうか。

花を買いきてしたしむ相手がいない孤独感のなせる業なのか。

けれども現実としては「花を買いきて妻としたしむ」との下の句、啄木の家庭は赤貧の中で夫婦仲が悪かったことはつとに知られているわけで、これは願望? やはりその中で疑いつつも自分の作り出す短歌への愛着に支えられていたのだろうとも思う。

物質的に豊かになり、IT技術が進んで考えられないほどの便利さも手に入れて、その分人は己の価値観を失い、己の存在価値を見出せなくなるということなのだろうか? 豊かさと引き換えにしたものは…

私なんぞはもうれっきとした高齢者、この先それほど長く生きるわけでもなしもうどうだっていいのだけれど、生きづらいこの時代に生きる人たちは大変だなぁとつくづく思ったりする。息せき切って追いかけなければならないものが多すぎる…

でもさ、起きて半畳寝て一畳だよね… 最近しみじみとそう思ったりするわけだ。まぁ、私の場合、炉室も必要だけどね。^^);