便利さ

先月、我が家の給湯器が壊れた。無理もない。家を建て直したのが平成3年、そのとき以来使い続けていたわけだから、丸20年。考えてみたらよく持ったものだというべきなのだ。仕方がないから買い替えた。
まぁ、いろいろな機能がついている。ほとんどは私には必要のないものだ。一人暮らしなのだから保温をしておく必要は全くない。お風呂で具合が悪くなって呼び出しボタンを押したって誰が来てくれるわけでもない、翔太が来ても仕方がないのである… しかし、そんな機能がついていない機種などないわけで、仕方がないからそれでもなるべく機能が少ないものを選んだ。
ところがこの給湯器、喋るのである。(多分、今の世の中、給湯器や冷蔵庫が喋るなんぞは普通のことなのだろう。)
台所のリモコンが喋る。「後およそ5分でお湯はりが完了します。」そして5分後、パッヘルベルのカノンが鳴り響き「お湯はりが完了しました!」と言う。
確かに便利ではある。忘れる心配がない。「はい、ご苦労さん。」と思いつつお風呂に入るだけである。
以前に借りた画廊では、トイレに入ったとたんに便器の蓋がスーッと開き一瞬ギョッと後ずさりしてしまった。勿論用を足して立ち上がると何もしないのに水が流れた。出るときにこの蓋は閉めるべきか、それとも黙っていても閉まるのか? としばらく迷った。迷っていても始まらないとばかりに自分で閉じて出たのだが。
出かけるときにはナビが電話番号や住所を打ち込めば何処にでも連れて行ってくれる。その上、「まもなく事故多発地帯です。」などと注意もしてくれる。
便利な世の中になっているのだ。しかし…
ナビを付けて以来、私の生来の方向音痴は私の老眼並みにどんどん進んでいる。何処をどう走ったのか、全く記憶にない。だから何回行っても道を覚えない。よそのトイレを借りても水も流さずに出てきてしまう子供がいるらしい。多分その子の家では最新式のトイレを使っているのだろう。
まぁそのくらいなら目くじらをたてるほどでもないのだが、先日、不器用でうまく手術がこなせない外科医が増えていると言う話を聞いた。考えてみれば、靴紐の代わりにマジックテープで留めるものが主流になって、紐の結べない子供が増えたと言われたのはもう随分昔の話である。鉛筆だってナイフで削ったのは私くらいの年齢までではないだろうか? そりゃ不器用にもなるわよね、使わなくっちゃ手だって思うようには動かないのが理の当然だもの。手術を受ける前に「先生、鉛筆削って見せてください。」とか言わなくちゃならないの? でもそのうち、手術は全部ロボットがやるようになるのかもよ。手術のあとはホッチキスで留めるようになるのかも〜 そういえば大工さんだって壁板止めるのは金槌じゃなくてホッチキスみたいなのを使うじゃない。と、そのときは半分笑い話だったのだが、思えば恐ろしい話ではある。
便利になって、何でも道具任せですんでしまうと言うことは、どんどん人間の注意力が退化してしまうことに他ならず、工事中のクレーンがひっくり返ったとか壁が倒れたとか、考えられない出来事が起きる遠因はこの便利さにあるのかもしれない。
事故が起きる。事故を起こさないように二重三重にも安全対策のため様々なものを開発・改良する。その分、人はますます頼り切って不注意になる?? そういえばこの間、障害物を検知して自動的に止まって事故を回避する車のコマーシャル、見たっけ…